久し振りのバレンタインフィク、宇門博士の話です。
本当は2月14日公開の予定で作業をしていたのですけど、遅くなってしまいました。一応、14日の日付で公開はします。
●Phase 0 宇宙科学研究所・ラウンジ
2月14日、宇宙科学研究所のラウンジは賑わっていた。バレンタイン・デーだというので、ひかるとマリアが午前中のうちに街で大量にチョコレートを買って来たのである。マリアは地球に来て初めてのバレンタイン・デーだったので、このイベントに大いに興味を示した。ひかるにさんざんせっついて、手作りチョコレートの制作キットや材料を買い集め、昼過ぎからラウンジの隣のキッチンでチョコレートの制作に熱中していた。面白がって型を大量に買い込んだものだから、出来上がったチョコレートはありふれたハート型はもちろん、鳥、魚、貝、動物、ハッピーバレンタインのロゴから宇宙ロケットまで様々であった。それらを、オードブル用の大皿に積み上げてラウンジのテーブルに置いたものだから、廊下までチョコレートの甘ったるい香りが漂うことになった。
夕方、仕事の都合で研究所で夕食を採るつもりの所員たちがラウンジに来た時には、台所はチョコレート制作の器具がまだ洗われないまま積み重ねられ、テーブルはチョコレートの大皿が並び、誰がどう見ても食事の支度は不可能であった。
大介と甲児も、夕食にしようとラウンジに向かった。甲児が先に立ってドアをあけると、数人の所員たちがコーヒーや紅茶のカップを片手に半ばあきらめ顔でチョコレートをつまんでいた。
「うわー、すげぇ量のチョコレートだなー」
甲児が叫んだ。
「だって今日、バレンタインデーでしょ」
マリアが応じた。
「だからってこの量は……」
「いいじゃない!年に1回だっていうし、今日だけは好きな人に食べさせてあげる日なんでしょ。好きなだけ食べていいわよ、甲児」
「あのねェ、チョコレートはちゃんと箱に入れてリボンをかけて渡すんだよ。多けりゃいいってもんじゃ……」
「何よ甲児、私が作ったチョコ、食べたくないっていうの?だったらいいわよ」
「あ、そうじゃない。そうじゃないってば」
甲児は慌てた。外は吹雪で霧も出ていて、食糧を調達に行くのはかなり大変である。ラウンジとキッチンの様子を見た限り、今晩の夕食に他のものは期待できない。ここでチョコレートを拒否したら、何も食べないまま深夜まで仕事をする羽目になる。
「ありがたくいただきますよ。い・た・だ・き・まーす!」
空いている席に座った。
「紅茶にします?それともコーヒーにします?」
ひかるが声をかけた。
「コーヒーを」
そんな様子を、大介は入り口に立ったまま眺めていた。
「大介さんも来いよ」
「あ、ああ……」
大介は甲児の隣に座った。
「僕もコーヒーをもらえるかな」
ひかるからコーヒーの入ったカップを受け取る。
「マリアの奴……」
小声で呟いたが、ひかるの耳には入っていた。
「マリアさんがすっかりはしゃいじゃって、甲児に食べてもらうんだ、って。手作りにしたら箱に入れて渡すのよ、って言ったんだけど」
ひかるはちら、とキッチンの入り口に置かれた買い物袋を見た。ラッピングの材料が入っていた。
「一体これは何の騒ぎかね?」
宇門が入って来た。観測室メンバーの大井、林、佐伯、山田が後に続いた。
「所長、バレンタインデーのチョコがこの有様で……」
先に席に着いていた所員が情けない声を上げた。
「義理チョコでもこれだけあれば華やかじゃないか」
宇門は全く意に介していない。
研究所には女性職員は居ない。出入りしている女性はひかるだけである。その結果、例年のバレンタインデーのチョコレート配付状況は、ラウンジに置かれた袋入りあるいは缶入りのチョコレートの中から一人1つか2つだけ、というのが相場となっていた。
「たまにはこういう夕食も悪くないな。私も一ついただこうか」
宇門は、観測室メンバーを促してテーブルについた。ひかるからコーヒーを受け取り、大皿から貝殻を模したチョコレートをつまむ。口に放り込んだ時、佐伯が訊いた。
「そういえば所長、バレンタインデーにチョコレートをもらった事ってあるんですか。義理以外で」
「先生なら学校でも女の子たちからもらえたんじゃないんですか?」
甲児も身を乗り出した。
「私が学校に通っていた頃は、甲児君の高校のような共学ではなかった。それに、バレンタインデーにチョコレートを配るようになったのは最近の事だ」
「留学先ではどうだったんです?」
さらに追求したのは山田だった。
「スイスでの話か……恋人達の間でプレゼントを贈ることはあった。花束やその他いろんなものを贈りあっていたから、チョコレートはプレゼントの一種に過ぎん。それに、女性が贈ると決まっているわけでもなかった」
「じゃあその頃は誰か恋人から……?ひょっとしてプレゼントをする側だったり?」
甲児が訊いた。宇門がどう答えるか、所員たちまで興味津々という顔になっていた。
「いや、それは……」
宇門は口ごもった。
「むしろ、ひかるさんがこうやって毎年チョコレートを配っていることの方が、私にとっては感慨深い」
「ちょ……それ一体どういう意味です?」
佐伯が即座に突っ込んだ。
「失礼ですけど所長とひかるさんじゃ……」
山田が眼鏡の縁に手をかけながら呟いた。
「感慨深い、と言ったのだ」
宇門は繰り返した。怪訝な顔をする所員達に向かって、宇門は続けた。
「私が帰国してすぐの話だ。あの日も今と同じように雪が多かった……」
その日、宇門は蓼科高原に向かって車を走らせていた。
スイスから帰国した宇門は、都内のホテルに一週間ほど滞在し、手配しておいた信州の山奥の土地の売買契約を済ませた。その後、都内をあちこち回って食糧や機材を買い込んでランドローバーに積み込んだ。気象情報はこの冬一番の寒波の到来を告げていた。
中央自動車道に入り、諏訪方面へ向かう。都心を出て間もなく雪がちらつき始め、山梨県を過ぎて長野県に入る頃には吹雪になった。ラジオの気象予報では、これから低気圧が通り過ぎるという。通り抜けてきた山梨県エリアでは、中央自動車道に通行規制がかかったと報じていた。遊び目的の登山なら日を改めるところだが、宇門の目的は信州に買った土地の調査だ。この先数日は現地で滞在する事になる。
茅野市で高速から降り、蓼科高原に向かうバスの後ろを暫く走った。ビーナスラインを抜けて行くバスと途中で分かれ、県道に入った。県道を暫く行くと、細い林道になった。その先は道が分かれていて、周辺に点在する牧場に通じている。宇門は地形図で道を確認しながらゆっくりと林道を登った。ヘッドライトの視野の中で、強くなり弱くなり雪は降り続け、時折風が吹き抜けて積もった雪を舞い上げる。既に日は落ち、暗くなり始めていた。
曲がりくねった林道の何度目かのカーブを過ぎた時、前方に雪の壁が見えた。ブレーキをかけて車を停めた。売買契約の時にもらった写真を助手席に置いた袋から取り出し、ペンライトで照らす。写真を撮影した季節は秋で、写真の中の木々は紅葉していた。林道は木の板を打ち付けたゲートで封鎖されていて、「旧日本軍要塞跡地、関係者以外立入禁止」とペンキで描いた札が取り付けられていた。
宇門は防寒着を着込んで外に出た。
周囲の牧場を結ぶ道だから除雪車は入っていて、道の左右に雪をはねた後、余分な雪をフェンスの方に寄せたらしい。宇門の背の高さ以上ある押し固められた雪の塊が道を塞いでいた。ゲートは雪の向こうにあるはずだ。ゲートを開ける鍵をもらってはいたが、ゲートを掘り起こしていたら何時間かかるかわからない。目の前の雪の壁がそれほど厚くなく、早々に鍵にたどり着けたとしても、ゲートの向こうに続くのはこの冬ずっと除雪していない道である。雪の上を通った方が楽、と判断し、折りたたみのシャベルを取りだした。雪を踏み固めながら上に積み、ステップを水平に削って壁を乗り越えるための階段を作る。上着に積もった雪が溶け、すぐさま凍り付いた。
車に積んできたプラスチックの橇を抱え、雪の階段を上りきったところに置いた。買い集めてきた工具類や食糧を橇に乗せて、上からシートを掛けて紐で留めた。冬山登山の道具一式は大型のバックパックに入れて背中に背負い、スキー板とストックを持って雪の階段を上がる。最後の一段を上がったところで、スキー板を置き、右足のブーツの先を引っかけ、ビンディングを留めた。スキー板は陸軍仕様の山スキーで、踵を固定せず、板の裏にはステップカットがついていて、歩くことも滑ることもできる。宇門は二、三歩その場で雪を踏みしめ、今来た道を振り返った。既に周囲は闇に閉ざされている。胸につけたフラッシュライトの光の輪の中で、ランドローバーのフロントガラスには既に雪が積もりつつあった。このまま数日放置すれば完全に雪に埋もれ、戻って来た時には掘り起こさなければならなくなりそうだった。それでも、停めてあるのが道路の行き止まりなら、誰かの通行を邪魔するおそれはない。
「行くぞ」
心の中で声をかけ、橇を引いて歩き始めた。目的地までは道なりに一キロもない。雪が積もっているとはいえ、元々林道だったのだから、登山道に比べれば道幅はそれなりにある。しかし、ところどころある吹きだまりが邪魔をしていて、橇を引きながら進むには蛇行するしかなかった。エッジを効かせつつステップカットで後ろに下がるのを防ぎながら交互に足を蹴り出す。軽い新雪をかき分けながら進む、その足元の地形がわからない。下が地面なら問題無いが、雪庇なら踏み抜けば橇ごと沢に転落する。そもそもこれまで立ち入り禁止になっていた場所に踏み込んだわけで、入山届も出していない。ここで沢に入り込んで身動きが取れなくなってたとしても、宇門がここに居ることを誰も知らないのだから、救助は期待できない。そのまま凍死したら、春になっても死体が発見される保証すらない。
道の脇の木が途切れたところでは風が巻き、渦を作って下から雪を舞い上げていた。雪をまともに顔に受けると、顔が痛くて目も開けられない。ポケットからゴーグルを取りだし、帽子の上から付けた。改めて防寒着のフードを被り直し、コードを引っ張って耳と顔を覆うと少し落ち着いた。風に吹かれて木の枝が悲鳴のような音を立て、降り積もった雪が固まりで落ち、地面に達する前に砕けて飛び散っていく。ジッパーにぶら下げてある小さな温度計を見た。氷点下十五度を示していた。体感温度は風速一メートルにつき一度低下する。体感温度はおよそ氷点下三十度位にはなる。
道なりに進んでいくと、緩やかに左に曲がることになった。事前に確認した地図と航空写真でも、旧要塞までの道は左に曲がっていた。目印になるものは何一つ無いが、急な傾斜を登ることも降りることもなかったので、道を外れてはいないだろう。暫く歩いて行くと再び雪の壁に出くわした。乗り越えるには高すぎる。宇門は橇を引いていたベルトを外し、シャベルを手に、雪を掘った。押し固めてからスキー板を外し、さらに足で踏んで足場を作った。雪の表面は新雪だったが少し掘ると雪が氷の塊になっていた。先端が真っ直ぐな携帯用のスコップでは弾かれてしまう。背中に背負っていたザックを降ろし、ベルトで留めておいたアイスアックスを手に持った。湾曲した柄を握り、ブレードを氷目がけて振り降ろした。氷のカケラが飛び散り穴があき、ひびが走る。ひび割れた先にブレードを数回叩き込んでから、シャベルで掬って氷の塊ごと雪を取り除いた。雪を掻き出しても掻き出しても、風に舞って新たな雪が掘った穴に吹き溜まってくる。氷の層を叩き割ること三度目にして、ようやく、行く手を塞いでいるのが木の板であることがわかった。掘った穴の左端にはコンクリートの柱のようなものが見えている。
写真で事前に確認した限りでは、目的地はコンクリートの塀で囲まれていて、出入り口は板を打ち付けて封鎖されていた。堀り当てたのが入り口であることは間違いがなかった。雪がなければ打ち付けてある釘を抜けば中に入れるが、今は板もコンクリートも凍り付いている。宇門は、橇にかぶせたビニールシートの端をめくって、荷物の中から斧を取りだした。両手で握って板目がけて振り降ろした。鈍い音とともに板が割れた。人と荷物が通れるだけの穴があればいい。今度は横に斧を振り、斜めに打ち付けてある板を粉砕した。氷のかけらがくっついたままの木の破片が雪の上に散らばった。板には打ち付けられた釘がそのまま刺さっていた。素手で触れば怪我をしそうな板の破片を、宇門は遠くへ投げ捨てた。
シャベルで雪を掻き出しつつ、前に進んだ。両側から崩れ落ちてくる雪を前方に積んではシャベルで叩き、踏み固めた。塀の反対側に出られるスロープを作り、橇を穴の中に押し込んでから前に回り、スロープの上に登って橇を引っ張り上げた。あと少し、というところで宇門は勢い余ってバランスを崩した。転ばぬようにと踏み出した左足が太ももの付け根まで雪に潜った。足を引き抜こうとして突いた両手も肘の上まで雪に潜って、身動きがとれなくなった。宇門は深呼吸して、左手だけを雪から出し、橇を引き寄せた。両手で橇に掴まり、右脚の膝から下全体を雪に押しつけ、腹ばいになって橇の上によじ登った。橇を乗り越えて何とかスロープ側に降りて座り込んだまでは良かったが、尻餅をついたままの姿勢でスロープを滑り落ち、板を割って作った穴のところで止まった。宇門は、門の外に置いてあった登山用のリュックを担ぎ、スキー板とストックを纏めて持ち、スロープを上った。
風の音に混じって下の方から水の音が聞こえた。予想していたよりもダムの上は広々としていた。向かって左手には、半ば雪に埋もれた建物があった。正面は山肌で、通り抜ける道は無さそうだった。ダムと一体化した形で建設されたという旧日本軍の要塞跡地はこの場所に違いなかった。
建物の状況を確認するため、再びスキーを履いて宇門は歩き始めた。とりあえず建物の周囲を一周するつもりだったが、建物の反対側は湖に向かって切れ落ちていた。雪は、一階部分を完全に埋めていた。二階の窓の一つが割れ、中に雪が吹き込んでいた。宇門は橇を窓の所まで運び、スキーで雪を踏みしめながら部屋の中に入り、そのまま滑り降りた。部屋の中は半分以上が雪に埋もれていた。ガリッという音がしてスキーが止まった。
部屋の中には何もなかった。電灯が取り付けられていたはずのコードは剥き出しのまま束ねられていた。奥の扉のノブには土埃が溜まっていた。手袋のまま埃を払い落とし、ノブを回して引いた。軋む音を立てながら扉が開いた。
廊下をフラッシュライトで照らした。黄ばんだ紙や、天井や壁から剥がれ落ちた塗料らしきものが散乱していた。掲示板としてと使われていたらしいパネルが床に落下していた。廊下は奥へと続いており、1階に降りる階段も見えた。終戦から十年以上この建物は使われておらず、廃墟と化していた。しかし、元が爆撃にもある程度耐えられるように設計されていただけあって保存状態は思ったよりも良さそうだった。内部は暗闇である。詳細な調査には照明が必要だが、携帯用のフラッシュライトとランタンだけでは心許ない。夜が明ければ、窓のある部屋はライト無しでもそれなりに内部が見えるはずである。宇門は、本格的な調査は明朝から始めることに決めた。
宇門は扉を閉めた。吹き溜まっている雪を踏み固めながらブーツのつま先を蹴り込んで上り、橇を部屋の中に運び込んだ。
門のゲートを掘り出し、斧で破って中に入り、雪まみれになって建物の中に入るまでの作業は重労働で、防寒着の下は汗だくだった。動くのをやめた途端、背中や脇の汗が冷え、容赦なく体温を奪いつつあった。寝る場所を作るために、登山用リュックからテントを取りだして拡げた。折りたたみの支柱を通す間も震えが止まらない。やっとのことでテントを立て、フライシートをかぶせ、テントの中に断熱用のエアマットとシュラフを放り込んだ。建物の壁があるから吹雪の直撃は避けられるが、気温の低下はいかんともしがたい。
運んできた機材の中からランタンを取りだし、火を付けた。黄色く輝く炎が部屋を照らし出した。光に近づくとわずかに熱を感じてほっとした。が、暖房と呼べるほどの熱量はない。コンロも燃料も食糧も充分持って来ていたが、歯の根の合わぬ状態で湯を沸かすのさえ億劫だった。
——とにかく一時的に体温を維持できれば汗も乾くだろう。そうすれば震えも治まるはずだ。
宇門は、リュックの中からウォッカのボトルを取りだした。手袋のまま栓を開けようとしたがうまくいかない。手袋を脱ぎ、痛いほどの冷気を感じながら蓋を回して封を切り、直接口に含んだ。ほとんど癖のないエタノール水溶液に近い味だった。二口飲んで栓を閉めた。酔いつぶれるような飲み方をすれば命に関わる。効き方を見ながら追加すればいい。喉から食道と胃にかけての灼けるような感触が、内臓全体に広がりつつあった。テントの入り口の近くに置いたランタンの光を見つめながら、エアマットを拡げてテントの入り口のところまで引っ張り、腰を降ろした。震えは治まりつつあったが、少しも酔った感じがしなかった。もう一口、ウォッカを口に含む。寒さのために、飲むそばから覚めていくようだった。
改めて部屋の中を見回した。吹き込んだ雪の端の方に、さび付いたヒーターが見えていた。スチームを使った全館暖房のなれの果てだった。天井付近の壁には穴があいて、ケーブルの切れ端が何本も垂れ下がっていた。敗戦が決まった時に機密は全て廃棄され、その後の物資不足のため目ぼしい物は全て持ち去られてしまい、取り外せなかった物だけが残されたのだろう。スチームが通っているならどこかにボイラー室や燃料を備蓄する部屋があるはずだし、ケーブルの配線を多数引き回していたということは司令塔に情報集約する仕組みを本気で備えていたということだ。だが、排気筒や送電線は外から見た限りでは無かった。電力を自前で確保し、空調のための空気取入れ口を山林の目立たない場所に作っているのだとすると、設備の大部分はダムの内部か地下にある。松代大本営の計画でも地下壕を掘りまくったのだから、この要塞跡地の下に地下壕が縦横に走っていたとしても不思議はない。
ここを改装して天文学の研究施設にするための手順について、宇門は考えを巡らせていた。まずは電源の復旧、その後建物を機能させるための工事、研究機材はその次か……。もともと日本に研究施設を作るつもりは宇門には無かった。さしあたっては地球からしか観測は出来ず、大気に邪魔されるのが嫌なら宇宙望遠鏡を打ち上げるしかないわけで、国にこだわる理由は特に無かった。宇門は、留学先で親友となった某国の王族に呼ばれて探査機打ち上げの手伝いに行き、そのままそこで研究活動を続けるつもりでいた。その親友は打ち上げ施設以外にも、天文学の観測所を作る計画を持っていたから、早くから相談をその受けて、望遠鏡の仕様や制作手順を決めるといった作業に携わっていた。ところが、初回の打ち上げの最中にクーデターが起こり、一緒に活動するはずだった親友は国境をえて脱出できず、活動資金を宇門に託して死んでしまった。軍事政権が樹立され内戦の様相を呈している国では、天文学の研究どころではない。予定外の事態に、宇門は研究設備を作る場所の選定から始めることになった。海外で使えそうな場所は既に誰かに押さえられていた。母国で使えそうな場所を捜した結果、蓼科山中の旧日本軍要塞跡地が候補となった。交通の便が悪いから居住に適さず、農業や牧畜にも使えそうにない上、国立公園や国定公園が入り組んでいて伐採もままならない山林で、改装するにもやたら頑丈で余分な費用のかかるダム管理棟を模した建物が残され、松代と違って存在理由もはっきりしないため戦争の遺構としての観光資源化もできないという理由で、閉鎖され放棄されていたのだ。だが、そういった理由は天文台を作るという目的には何の障害にもならない。宇門は、要塞跡地を丸ごと買い取り、どう使えそうかを早急に調査しようとして、厳冬期のこの時期に雪と格闘する羽目になったのだった。設備の内部まで全て見ないと正確なところはわからないが、場所としては悪くない。除雪して工事のための業者を呼べば早々に人が暮らせるようにはできるだろう。
問題は人だった。既に天文学の国際会議では、宇宙人を捜すためにオズマをやると宣言してきた。当然のことながら専門家筋からは呆れられてしまったから、天文学の本流からも、恩師であるシュバイラー博士の人脈からも人的援助は望めない。もともと地球外生命体が居るのではないかという感触は持っていたが、それはそれとして黙ってこっそりやっていれば、天文学の本流に残ることはいくらでもできた。そうしなかったのは、親友から引き継いだ資金の金額が、個人が持つには多すぎる国家予算規模のシロモノだったことによる。それだけの金があれば、近代的な軍隊と兵器を整え、武力によって軍事クーデターを潰すか、経済戦争を仕掛けて武力によらずに政権を潰して親友の敵討ちをすることも可能だった。しかし、宇門は、他国の争いに介入する気はさらさら無かったし、親友と約束した天文学と宇宙開発を進めることを望んでいた。だから、地球外生命探査のための高性能な望遠鏡を備えた施設を作るつもりだ、と敢えて宣言して広めたのだった。世の中に金のかかる趣味は数多あるが、天体望遠鏡にかかる金は底なしで、ハイエンドの望遠鏡、例えば宇宙望遠鏡一台を手に入れようとしたら数千億円から一兆円に届く予算が必要である。実際、天文台と望遠鏡の建設計画を発表した後は、宇門が軍事的・経済的脅威になるとは見做されなくなった。その代わりに変人呼ばわりされて学会からは冷たい眼で見られることになったが、脅威と思われて命を狙われる可能性があるよりはずっとマシだった。
ぼんやり考えている間に、体の震えは完全に止まっていた。まだ背中や脇が冷たい感触はあったが、このまま休めば朝には乾くだろう。そう思った時、宇門は窓の外に足音を聞いた。
「誰だ!」
言葉が被った。窓枠まで積もった雪の上に、小柄な人影があった。
「怪しい奴め、ここで何をしている。手を上げろ」
それはこっちの台詞だ、と思いながら、両手を挙げつつ相手を確認する。手にしている武器のシルエットはショットガンだと見極めた途端、雪の上で滑った相手が部屋の中に転がり込んできた。
暴発する、と思った宇門は射線から体を外すため横に飛んで転がった。
「わっ!イテテ……テーッ!」
相手は窓から転がり落ちながら情けない声を出して雪まみれのままコンクリートの床に尻餅をついた。宇門よりはだいぶ年輩のはげ頭の小柄な男だった。皮の上着に星形のバッジをつけていて、西部劇の一シーンから抜け出してきたような恰好だった。
「こんなところにシェリフが居るとは思わなかった。大丈夫ですか?」
問いかけた宇門に、相手は銃を突きつけた。
「怪しい奴、名を名乗れ。ここは立ち入り禁止の筈じゃ!」
「宇門源蔵。この土地も建物も私が買い取ったのです。銃を下ろしてくれませんか」
「何、買い取った?するとお隣さんかね」
ショットガンの銃口は逸れたが、相手はまだ不審者を見る目で宇門を見つめていた。
「失礼ですが貴方は?」
「牧葉団兵衛と申す者」
「これはこれは……引っ越しの挨拶もせず失礼しました。何せここに来るのは今日が始めてなもので。落ち着いてからと思っておりました。牧葉さん、どうぞ今後ともよろしく」
右手はウォッカのボトルを持ったままだったので、握手のために左手を差し出し、宇門は手が濡れていることに気づいた。さっき銃から逃げるために転がって手をついた時、散乱していたガラスの破片でざっくり掌を切ってしまったらしい。血が滴っていた。
「あ、これは失礼を」
ポケットからちり紙を取りだして血をぬぐう。今になって痺れたような痛みを感じ始めていた。思ったより深く切ったらしく、ぬぐっても押さえても血が止まらない。手当をするため、橇に載せてある荷物の中から救急キットを引っ張り出した。
「怪我をしとるんならウチへ来い」
団兵衛が言った。
「いや、おかまいなく……」
「いいから早く来るんじゃ。何をぐずぐずしておる!」
乱入したのは団兵衛の方なのになぜ急かされなければならないのか、と思いつつ、この剣幕では断る方が手間がかかる、と思った宇門は素直に従った。とりあえず傷口にガーゼを当ててハンカチできつく縛り、救急キットだけを肩からかけた。ランタンの灯を消し、スキーを持って窓の外に出た。先に出た団兵衛はさっさとスノーシューを履いていて、早くせんかと宇門を急き立てた。
左手が使えないまま、宇門は団兵衛の後をついて、来た道を引き返した。団兵衛の家は、来る時に通ってきた道の右側、宇門が車を停めたところからさほど遠くない所にあった。看板も表札も出ていなかった。
「戻ったぞ!お客さんじゃ!」
団兵衛が扉を勢いよく開けた。宇門はスキーとストックを玄関脇の雪に挿して後に続いた。若い女性がむずかっている赤ん坊を抱いたまま出て来た。
「どうも夜分遅くに済みません。隣に越してきた宇門と申します」
車一台とテントと調査機材だけ持って来ている状態を引っ越したと呼んでもよいのか、心のなかで引っかかりつつも宇門は型どおりの挨拶をした。
「怪我をしとるんじゃ。手当をだな……」
「あなたが怪我させたんじゃありませんの?出て行くときは凄い剣幕でしたわ」
女性は心配そうな顔で宇門と団兵衛を交互に眺めていた。
「いや、自分の不注意です。ご迷惑をおかけします。すみませんが水をいただけませんか。傷の手当てをしたいのです」
宇門は洗面所の水道を借りて左手の血を洗い流した。出血は続いていて治まる様子がなかった。酔っている感じは無かったが、この程度の傷で血がなかなか止まらないのは、やはりアルコールのせいだろう。持って来た救急キットの麻酔薬を使い、軽く麻酔した後、傷口を四針縫って、ガーゼを当てて繃帯を巻いた。
——これで血は止まるはずだ。数日は不自由だが仕方無い。
救急キットを片付けていたら、団兵衛が呼びに来た。食堂に案内され、テーブルの前に座ることになった。
「お前、何か暖かい食事でも出したらどうかね」
団兵衛が言った。団兵衛の妻らしき女性が困った顔をする。
「済みません、今夜は本当に何もなくて……」
家を見た限り、暮らし向きにそうそう余裕があるようには見えなかった。まして今は冬である。農業や畜産で生計をたてているとしても、備蓄には限りがあるはずだ。おそらく夕食を余分に作るということはしていないのだろう。
「いや、本当におかまいなく。実は酒を飲んでいて、そろそろ休もうかと思っていたところだったのです。ですから食事はもう……」
「本当にこれくらいしか無くて……」
女性が差し出したのは板チョコレートだった。
「チョコレートでどうするつもりなんじゃお前は!」
儂の顔にドロを塗る気か、と団兵衛はいきり立った。
「でしたら白湯と、コップとスプーンをいただけますか」
宇門はチョコレートをコップに割り入れ、ストーブの上に置いてあったやかんから湯を注いだ。
「溶かして飲むと落ち着くのです」
酒のせいで空腹を感じてはいなかったが、雪との戦いでそれなりにカロリーは消費していたらしい。甘いチョコレートドリンクが全身に浸み通る気がした。
団兵衛は目を丸くして、宇門が飲むのを見つめていた。
それから、団兵衛と話をすることになった。女性はやはり団兵衛の妻で、赤ん坊は生まれて間もない娘でひかるという名だった。団兵衛は戦前はテキサスで牧場をやっていて、戦後になってこの場所に戻って牧場を続けているのだと言った。牧場の名前はまだ無かった。宇門が、スイス帰りの天文学者だと自己紹介した途端、ロズウェル事件を知ってるかと興奮して話しかけてきた。結局その夜は牧葉家に泊まることになった——
「それが、2月14日だったのだ。あの時のチョコレートは本当に美味かった」
「そんなことがあったんですか」
ひかるが呟いた。
「まだ小さかったから覚えていないだろうね。それでもひかるさんが毎年2月14日にチョコレートを配っているのを見ると、あの日のことを思い出すのだよ」
「それじゃあ、所長と団兵衛おじさんの出会いは、所長がホールドアップされたことで始まったんですか。ホントに団兵衛おじさんって変わってないなあ……」
呆れて声を上げた甲児に、所員たちが大笑いした。
「私も最初は驚いたがね……しかし時が過ぎてしまえばいい思い出になるものだ。マリアちゃんも地球で楽しい思い出をいっぱい作っていくといい」
宇門は立ち上がった。まだ仕事が残っている。観測室メンバーも、思い思いにチョコを手にして後に続いた。
観測室へ戻り、宇宙望遠鏡の映像を見つめた。
「たった一人から始めてここまで来れたのだ。これで良かったのだろう……」
せっせとチョコレートを頬張っている所員たちに宇門の呟きが聞こえたかどうかは定かではなかった。
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